イントロダクション
教室
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浩太 「は、はいっ！」
がたん、と椅子を蹴飛ばして思わず立ち上がる。
目の前には先生―――社会科担当の長谷智恵理先生―――が、腕組みして立っていた。
智恵理 「いいお返事」
浩太 「はい……」
智恵理 「さて恋川君。今はなんの時間？」
浩太 「しゃ、社会科の時間……です……」
どっ、と教室に笑い声がわいた。
智恵理 「はい正解。国語の時間と勘違いしてるかと思った」
先生の手がこちらへ伸びた。
浩太 「え……」
そのまま、先生は僕が右手に持っていた文庫本を取り上げる。
しまった！
智恵理 「先生、読書はとってもいいことだと思うの」
浩太 「は、はい……」
智恵理 「でも授業中まで頑張るのはどうかと思うなぁ」
言いながら先生は、カバーのかかった表紙をめくる。
浩太 「あ、ダメ……」
智恵理 「どれどれ、恋川君を熱中させた本は、と―――」
浩太 「っ―――」
智恵理 「おんな……きょ………………」
目の前で絶句し、みるみる赤くなっていく先生の顔を、僕はいたたまれない気持ちで見ていた。
同時にすこしだけ安心。
『女教師知恵 誘惑の課外授業』なんていうヨーロッパ某国の名前がついた黒表紙文庫のベタなタイトルを、クラスメイト全員の前で読み上げられずにすんだから。
智恵理 「…………とっ、とにかく！」
好奇の視線が集中する中で、先生は本を勢いよく閉じ、僕へ向き直った。
耳たぶまで真っ赤だった。
智恵理 「とにかくこの本は没収！……授業はちゃんと聞かなきゃダメ！わかった？」
浩太 「……はい、すみません……」
ああ、ツイてない。
ずっと目を付けていた本なのに。
昨日ようやく買ったのに。
帽子を深く被ってマスクして、咳しながら声を変えて、伊達眼鏡までかけてレジへ持って行って、
うんうんわかってるよ、私もそういう時期があったねぇ、なんて顔を本屋のおじさんにされちゃうほど恥ずかしい思いまでして購入した、僕の勇気と努力の結晶が―――
ついでに今月の小遣いの1/4が―――
パァだ。
智恵理 「……よろしい。では授業を……」
踵を返し、教壇へ戻っていく先生の後ろ姿。
智恵理 「授業を続け……あれ？」
教科書のページをめくる。
智恵理 「あれ……あれっ？ええと……」
焦って黒板を振り返り、教科書と見比べて―――
智恵理 「あの……さっきどこまで進んだんだっけ？」
また教室に笑いが起こる。
いつものことだ。
生徒 「……ドンくさいよ、先生……」
智恵理 「ごっ、ごめんなさい！」
真っ赤になって頭を下げる先生と、大笑いのクラスメイト。
茂昭 「156ページの真ん中から。がんばれ智恵理ちゃん」
友達の与田がはやしながら助け船を出す。
智恵理 「そ、そうだったよね、ありがと……ええと……」
慌ててページをめくり―――裏表紙まで。
智恵理 「あら？あららぁ？……この教科書、１２２ページまでしかないわよ？」
生徒 「先生、それ地図帳です」
智恵理 「……あれ？」
―――こういうところも僕は好きだったりするんだけど。
智恵理 「ご、ごめんなさい……」
しゅん、とうなだれて教科書を開く先生。
教室にはくすくす笑い。
意外と好意的な響きだ。
智恵理 「ええと、じゃあ―――国会の召集について。説明したとおり、日本の国会は内閣総理大臣の……」
くるりと黒板を振り返り、チョークを―――
智恵理 「あ……」
カタン
―――落っことす。
智恵理 「ご、ごめんなさ……きゃっ！」
ゴン
屈んだおでこが黒板のレールにぶつかって派手な音を立てる。
教室は爆笑の渦。
智恵理 「あ、ああっ！」
バランスを崩して教卓に背中からぶつかる。
智恵理 「あ……」
どんがらがっしゃん

教卓ごと派手に床へ引っくり返った。
……さすがにみんな黙ってしまう。
数秒後。
智恵理 「いたぁ…………あ、あは、あはは……」
腰を押さえつつ立ち上がり、照れ笑い。
はっきり言ってマヌケだ。
茂昭 「……だいじょぶか、先生？」
智恵理 「あ、うん……なんとか……」
けど、これほどの要領の悪さにもかかわらず、可愛らしい容姿と優しい性格で、長谷智恵理先生はそれなりに生徒達の人気者だったりするのだ。
特に男子生徒には人気が高く、定期入れの中に密かに先生の写真をしのばせているヤツも1人や2人じゃない。
で、もちろん僕もそのなかに勘定される、ってわけ。
智恵理 「……コホン」
元に戻した教卓の上でひとつ咳払い。
智恵理 「さあ、今度こそ授業再開します！ええと、日本における国会召集の手続きは……」
絶妙のタイミングで授業終了を告げる鐘の音が響いた。
智恵理 「あ……」
スピーカーを振り仰ぐ先生の表情があまりにも情けなくて、教室は再び爆笑に包まれてしまった。
智恵理 「……あぁん、もぉ……」
額に手をあてる先生。
生徒 「きりーつ！」
日直が半分笑いながら追い打ちをかける。
ガタガタ
智恵理 「あ、まだ、宿題を……」
生徒 「礼！」
言いかける先生を無視して、授業は強制終了してしまう。
あっという間に教室休み時間の雰囲気へ入れ替わった。
笑いながら廊下へ出て行く生徒、隣とおしゃべりを始める生徒―――
智恵理 「……はぁ……私ってば……」
先生はあきらめたようにため息をつき、出席簿と教科書を整えて教壇を降りた。
その拍子で、大きく膨らんだブラウスの胸が揺れる。
はっきり言ってデカイ。
智恵理 『……いいのよ？思うとおりにして……』
さっきの妄想がいきなり耳の中によみがえった。
歩く先生の後ろ姿、はち切れそうなスカート、丸いお尻のラインが左右に揺れる。
浩太 「……っく……」
思わずのど仏が上下する。
ああ、あの胸を後ろから思い切り鷲づかみにできたらどんな感触だろう。
あの大きなヒップに、ガチガチに固くなったコイツをこすりつけたら、いったいどんな気分になるだろう。
あの髪を手のひらに流し、思うさま匂いをかいでみたら。
柔らかそうな唇に僕の指を、唇を、それから他のものも、押し当てたらどんな感じがするだろう。
服越しじゃなく、直接あの身体に、肌に触れて、なで回して舐め回して嬲り倒して押しつけて割り開いてそれからなにもかも―――
智恵理 「あ」
先生が、立ち止まった。
智恵理 「恋川君」
浩太 「はい！」
バネ仕掛けのように立ち上がる。
頭の中ではとっくにあられもない格好になっていた先生が、当然服の乱れひとつない姿で僕を見ている。
手元の文庫本に視線を落とし、それからすこし頬を赤らめて、言った。
智恵理 「……放課後、ちょっと指導室に来てくれる……？」
浩太 「……はい……」
答えると、先生はなにかひと言付け加えようと口を開きかけ―――
智恵理 「……うん。忘れないでね」
けっきょく、ひとつうなずいただけで廊下へと姿を消した。
ああ、驚いた。心の中読まれたかと思った。
……いや、あんな本読んでたの知ったら、なに考えてたかくらいわかるか。
浩太 「……ふぅ……」
突っ張ったズボンの前を隠すようにしながら、慎重に腰を下ろす。
待ち受けていたように斜め後ろから声がかかった。
聖華 「バっカだねー、恋川」
浩太 「うるさいよ、寄井」
クビをねじって振り返った先に、聖華のニヤニヤ笑いがある。
聖華 「内職ならもっとコソコソやんなさいよ。あ〜んな堂々としてたら、いくらドンくさい智恵理先生だって怒るって」
茂昭 「浩太がまじめに内職なんかするか。どーせエロ本でも読んでたんだろ？」
鋭いぞ茂昭。
浩太 「そんなんじゃ……」
茂昭 「いいっていいって、わかってる。親友の俺にはよーっくわかってるぞ」
ばんばん、と肩を叩かれた。
……親友なら聖華の前でそんなこと言わないでよ。
聖華 「そーなの？」
浩太 「違うよ」
じろっ、と冷たい視線。
……聖華のこういうとこ苦手。
茂昭 「なんだよ、寄井の方が俺よりずっとつきあい長いんだろ？なら浩太の性格ぐらいわかれよ」
聖華 「それは、浩太が教室で我慢できなくて漏らしたころからの腐れ縁だけどさ。エロ本読んでるとこなんか見たことないし」
茂昭 「あー、こういうかわいい顔したお坊ちゃんタイプは隠れてコソコソってパターンだな」
聖華 「与田みたいに万年垂れ流しのスケベよりマシでしょ」
茂昭 「誰が垂れ流しだ。飛距離なら誰にも負けないぞ」
聖華 「黙んなさい、公然わいせつ物男」
茂昭 「露出狂の趣味はない」
よくまあいつもいつも口げんかの種があるな、この二人。
聖華 「あんたの貧相な裸なんて見たくないって」
茂昭 「あー、この俺様の鍛え抜かれた肉体美を知らんから言えるのだ」
聖華 「性欲ばっか鍛えてもしょうがないでしょ」
頭の上を飛び交う罵声の応酬を聞き流してるうち、ようやくズボンの突っ張りも収まってきた。
首に茂昭の腕が巻き付く。
茂昭 「んで？なに読んでたんだよ」
浩太 「ぶ、文芸小説……」
聖華 「文芸小説ぅ！？エロ本より柄じゃないじゃない」
浩太 「そんなことない、好きだよ」
聖華 「へえ。どんなのが？」
浩太 「えと、えと……ゲーテとか」
茂昭 「げぇてぇ！？」
教科書に載ってた名前を適当に口に出したり。
聖華 「……ゲーテのなにが好きなの？」
浩太 「え？ええと……ほら、車輪の下とかさ……」
茂昭と聖華の冷たい視線。
聖華 「……あれヘッセ」
浩太 「ヘッセ……あ、そうそう、ヘッセ。初恋とかの人」
聖華 「それはツルゲーネフ」
墓穴がどんどん深くなる。
聖華が肩をすくめた。
聖華 「ふぅ。つまりろくでもない本読んでたのはわかった」
茂昭 「だから言ったろ？」
向き直って。
茂昭 「青少年の青い衝動をテーマにした高尚な文学作品を堪能してたんだよな？」
浩太 「だからぁ」
その通りだってば。
茂昭 「隠すなって。性欲は健康の証だぞ」
聖華 「与田。そのオヤジ臭い価値観に浩太引きずり込まないでよね」
茂昭 「おーこわ」
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聖華 「……ったく。バカにつきあってたら休み時間終わっちゃったじゃないのよ」
茂昭 「言われてるぞ浩太」
浩太 「君がね、茂昭」
聖華 「ほら、金井先生来ちゃうわよ」
あわてて席に戻る茂昭。
僕は二人の厳しい追及がうやむやになったことにほっとしながら、数学の教科書を開いた。
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